無限ザコ体験

ピンクの象だよー☆

チキンの稚気

仮に「コンテンツ化」の定義が「曲や絵等の創作物、或いは振る舞いなんかで具現化した自分の哲学が自他共に愛されるものになっていくこと」で大方正しいのだとすれば、

これまでの四半世紀、大体「コンテンツ化」を夢見て生きてきたように思います。

 

しかし近頃はコンテンツになりたいと願えば願うほど、身体は「普遍」を求め、「他者からの否定」を避ける傾向にあります。

他人に先立って自分を「自分で否定」しまくる日々が続き、自己否定と噓で塗り固められた精神世界で「枯渇」を何度も味わう羽目になっています。

今のところ、他者からの認知という「潤い」が与えられるまで「枯渇」を耐えしのいだ例はなく、アイデンティティーの「死」を感じ取っては、沢蟹の如く岩陰に逃げるばかりです。

 

「やり方を間違えているような気がする。」

「このままではコンテンツ化自体を否定することになりかねない。」

 

そう感じた私は原点回帰を試みました。

 

さてこんな私にも、人目をはばからずやりたいことに没頭した時代が確かにありました。幼稚園児位の頃ですね。当時は絵を描くことが一番好きでしたが、友達や漫画からパクった絵であろうと描きたいものが描ければ満足でした。幸いパクられて怒るような友達はいなかったけど、最低な話「怒られてもいいや」位の気持ちでいました(パクったことを隠したりはしませんでしたが)

この時が一番創ることを楽しんでいて、尚且つ人に囲まれていましたね。それも意図せず。

この在り方をもう一度目指そうと思いました。

 

…「流石に幼稚園時代と今は違うだろ現実見ろ」って声が超絶聞こえてきそうですが、「幼稚園児みたいに振舞おう!」という話とは違います。

要するに、「人目を気にせず、純粋に何か創ることを楽しむ方向にシフトしよう!」という話です。

 

「だからそれ純粋な子どもでないと出来ないやつじゃん!」って思う人もいると思います。私は実際そう思うことありました。

しかし、そもそも「純粋」の定義を「子ども」に押し付けること自体間違いなんですよね。とんでもなくズルくてスケベで純粋とはかけ離れた幼児普通にいますし、少なくとも自分はそういうヤツだったのをこれ書いてる間に思い出したんで…(小声)

それでも当時絵を描いていた時の「創りたい!」の気持ちだけで動く姿勢は、やはり「純粋」と呼ぶにふさわしいものだと思っています。つまり、「純粋であるかどうか」は「純粋にやれるかどうか」とは別の話ということです。

それに、「子ども」は「大人」になった瞬間完全に切り離されてしまう訳ではないんですね。いや、寧ろずっと地続きです。

それどころか「大人」になる過程で知識を蓄え、稚気たっぷりに自身の「子ども」を暴れさせているような輩が周りに沢山居ます。私はそういう人に憧れます。

 

…と、ここで唐突にマルセル・デュシャンの『泉』を思い出しました。

 

(Wikipediaより)

 

どっからどう見ても逆さになった小便器。なのに『泉』。

因みに原題はFontaine(:Fountain)で、『噴水』。

題名の由来は「便器を逆さにすれば水が上に噴き出て噴水ぽくなるから」、または「ノズルをチ●コに見立てて隠喩でそうつけた」とか言われてるそうです。

しょ~もね~~~と思わず言いたくなるほど破壊的。

作品に自分以外の名前をサインした上で、イヤがる展示委員に向けて「何故この素晴らしい作品を展示しない⁉」なんて抗議文発表して反応伺うような狡猾さも好ましいですね。

結果世界中に出回って、大勢のアーティストが見事に影響受けているのも面白い。

多少極端ですが、「稚気を放つ大人」のいい例だと思いました。

 

今後はやりたいことを思う存分やった上で、他者から与えられる価値を受け入れて生きていきたいと思いました。「みるものが、芸術を作る」というデュシャンの言葉を胸に。

 

1度や2度枯れたところで、花は何度でも咲く。

更新しません。さようなら

 

【完】